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The Papers of Henry Lewis Stimson 1861-1966


米国政府高官 スティムソン文書集

◆第二次大戦時の陸軍長官で対日占領政策に決定的な役割を果たした

 真珠湾奇襲攻撃の報を受けたローズヴェルト大統領は陸軍長官に電話で「今や日本人は真珠湾で我々を攻撃することにより、問題全部を解決してくれた……」と告げたといわれます。時の陸軍長官はヘンリー・ルイス・スティムソン(1867-1950)で、政権内で“唯一大統領を叱りつけることのできた男”と語られています。「アメリカ政治における道徳的支柱であり、強力にして明確な意見の持主であったため、外からは見えなくてもたえず大統領に影響を与えていた」というスティムソン評があります。彼は陸軍長官でありながら、かつての国務長官として対外問題に通じておりポストを超えて超党派的指導者としての立場を確立していたのです。1944年末にはスティムソン(陸軍)の主導の下でグルー(国務省)・フォレスタル(海軍)との三人委員会が再発足し、その実務機関としての三省調整委員会(SWNCC)が創設され、大戦の早期終戦と敵国に対する穏当な処理の検討が始められました。このSWNCCのもとに対日占領政策を起草するための極東小委員会(SFE)が1945年1月設置されます。スティムソン後見下のSWNCCが対日政策決定の実質的な最高機関となっていきました。天皇制存続による日本の早期降伏を求めることがスティムソンの主張だったのです。ポツダム宣言に際して原爆投下目標から京都が除外されたのも彼のイニシアティブによります。

 イェールとハーヴァード大学を卒業したスティムソンは、E. ルート(後に陸軍長官、国務長官、ノーベル平和賞受賞) と共同でニューヨークで弁護士を開業、共和党の有力者となります。タフト大統領の下で陸軍長官(1911-1913)、フーヴァー大統領の国務長官(1929-1933)、日本が満州国を建設するや侵略領土の不承認を主張し「スティムソン・ドクトリン」を声明(1931)、ローズヴェルト大統領とトルーマン大統領のもとでは陸軍長官(1940-1945) を勤め第二次大戦の遂行に努力しています。第一次大戦に大佐として従軍したこともあって“戦士スティムソン”と呼ばれるようになりました。1927年米政府派遣団を率いて米軍占領下のニカラグアに赴き、一転してフィリピン総督(1927-1929) をも勤めています。

 本コレクションには、スティムソンの青年時代から晩年までの書簡をはじめ、陸軍長官や国務長官時代の文書が収録されています。太平洋戦争末期の文書には、国体護持をポツダム宣言受諾の条件とする日本政府の声明への対応についてトルーマン大統領と話し合った会見記録などが含まれております。19世紀後半から第二次大戦後にわたるアメリカの外交政策、日本占領政策構想を研究する上で重要な基本資料です。

※本コレクションはマイクロフィルムThe Papers of Henry Lewis Stimson 1867-1950をデジタル化したものです

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