著者・編者 | Kellogg, Frank B., |
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出版社 | (UPA, US) |
ニュース番号 | <K03-72> |
PIN16555
フランク・ケロッグFrank Billings Kellogg (1856, Dec.-1937, Dec.)は、戦争の放棄を謳った1928年のケロッグ=ブリアン条約(Kellogg-Briand Pact)の締結で歴史に名をとどめています。
ニューヨークに生まれ9歳でミネソタへ移ったケロッグは、苦学して1877年ロチェスターで弁護士となります。セントポール市で弁護士事務所を開いていた従兄弟のCushman Kellogg Davis(後に連邦議会上院議員)に見込まれて彼の事務所に入り、以後の20年間ミネソタで安定した業績をあげます。中でもメサビ鉄山に関わる鉄道、鉄鉱、製鉄会社の顧問弁護士となったことから、カーネギー、ロックフェラー、ジェームズ・ヒルなど巨大な企業家たちとも知己となりました。こうした友人関係があるにもかかわらずケロッグは「独禁法取締官」の名声を得ています。1904年セオドア・ローズヴェルト大統領によって司法長官顧問に任じられたケロッグは反トラスト摘発で活躍し、また州際通商委員会顧問として、ハリマン鉄道会社、1911年にはロックフェラーとスタンダード石油会社を調査しています。1912年には米国法律家協会(ABA)の会長にも選ばれました。
ケロッグは1904年から共和党の全国委員となり全国大会代議員もつとめ、1916年選挙で上院議員に当選しています(任期は1917年3月から)。第一次大戦後の共和党政権となるハーディング大統領は1923年3月ケロッグにとって初めての外交官活動となるチリでの汎アメリカ会議に彼を派遣し、つづいて8月クーリッジ大統領は駐英大使に任命します。1925年クーリッジ大統領の下でハワード・ヒューズの後任の国務長官となり、メキシコとの関係改善に努め、ペルーとチリ両国間のタクナ=アリカ国境紛争を調停しています。
1927年春フランス外相ブリアンのよびかけた米仏間の不戦条約提案を受けてケロッグは、12月他の諸国も加えた一般条約とすることを提議し、その結果、米仏両国は1928年ケロッグ=ブリアン条約として知られる対外紛争を解決する手段として戦争を放棄するむねを宣言する国際条約を起草し世界各国に参加を提唱しました。8月27日パリで日本など15カ国がまず調印し、ついでソ連その他63カ国が加入したこの不戦条約は20年代アメリカ外交の非軍事的指向をあらためて明示し、第一次世界大戦後の集団安全保障思想のひとつの頂点をしめしています。この功績によってケロッグは1929年のノーベル平和賞を授賞されました。1930年には国際常設司法裁判所の判事となり、1935年その辞職後はセントポールに引退し1937年生涯を閉じました。
本資料はミネソタ歴史協会所蔵資料をマイクロ化したもので、書簡、覚書、演説原稿、切り抜き、諸方面にわたる背景資料を収めており、彼の生涯をあきらかにするものです。文書の中では彼の外交関係、国務長官時代のものが多数を占め、第一次大戦後の米国の対外政策、中南米関係、北伐期の中国に対する米国の政策、パリ不戦条約関係、国際常設裁判所関係の貴重な記録が含まれています。
・ISBN 978-1-55655-967-9 microfilm