出版社 | (UPA, US) |
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ニュース番号 | <K07-1089> |
アメリカ国民がはるか太平洋のかなたのヴェトナム情勢に関心を持ち始めたのは1964年夏のトンキン湾事件後、とりわけ北爆と地上軍派兵が始まった1965年春以降といえます。当初はヴェトナム介入を支持する世論が圧倒的でしたが、徴兵の対象となる学生の間では反対する声が拡がっていきました。SDS(民主社会のための学生連合)はそれまでは黒人の公民権運動を支援していましたが、ヴェトナム問題でのティーチ・インを組織したり、65年4月首都ワシントンで米軍撤退を要求する大衆的な反戦集会を催すようになります。この頃のアメリカ社会では若者の間にヒッピーや"破れジーンズ"などカウンター・カルチャーが流行っていきました。ヴェトナム戦争の泥沼化は学生や黒人の運動を急進化させ、また反戦運動に参加する社会層も拡大していきます。ジョンソン政権のくりかえす楽観的な説明に反して米兵の死傷者数が急増するにつれ政府に対する信頼は低下していきました。1966年末には米兵の死者は1万人近くになり、67年になるとヴェトナム戦費の増大による福祉予算の圧迫が市民の不満をひろげ、"ハト派"、リベラル、平和主義者、ラディカル、公民権運動指導者など広範な人々を糾合した「ヴェトナム戦争終結全国動員委員会MOBE」が結成され、各地で反戦集会が組織されました。67年秋の「徴兵拒否週間」の運動では、30都市で1400枚もの徴兵カードが燃やされました。
こうした反戦運動の高揚の結果ヴェトナム派兵を誤りとする世論が上回るようになり、政権内部で、力による解決に固執するラスク国務長官らの「タカ派」と、交渉による和平実現を求めるマクナマラ国防長官などとの意見対立が激化し、結局11月マクナマラ辞任にいたります。68年1月の南ヴェトナム各地でのテト攻勢でサイゴンのアメリカ大使館が一時占拠され、その状況は克明に報道され、米国民の多くは「戦勝は間近い」を繰り返すジョンソン政権に強い不信感を抱くにいたります。大統領予備選挙を控えたジョンソンはついに方向転換を決断し3月北爆部分的停止と和平交渉を呼びかけ、自ら大統領選挙への不出馬表明に追い込まれました。
本資料集はジョンソン大統領とそのスタッフが政策策定に利用し、ホワイトハウスに管理されていたもので、現在はジョンソン大統領文書館に所蔵されている文書を精選しマイクロ化したものです。政権が反戦運動にいかなる対応をしてきたのか、ジョンソンの掲げた「偉大な社会」の夢を挫折させたアメリカ社会の反戦運動と政権のかかわりを明らかにしています。
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