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商品詳細

Laos: Records of the U.S. Department of State, 1963-1966.


ラオスの国内事情 1963-1966年

◆米軍による爆撃が開始され戦場と化した1960年代のラオス情勢についての米国国務省文書

 本コレクションは、1960年代半ばのラオスの政治情勢に関する国務省の外交文書を電子化して提供するものです。国務省一般記録群(RG59)は1963年2月に、それまでの十進分類法(Decimal File)から主題・番号分類法(Subject-Numeric Files)へファイリング・システムが変更されました。収録文書は、政治(POL)の大分類が与えられた約17,000ページの文書群を収録します。ジュネーヴ合意が形骸化し、米軍によるラオス爆撃が開始され、ラオスが戦場と化した1960年代半ばのラオス情勢が米国国務省文書を通して明らかになります。

 ラオスはカンボジア、中国、ミャンマー、タイ、ヴェトナムと国境を接するインドシナ半島の内陸国家です。1953年にフランスからの独立を達成し、1955年には国連に加盟しますが、フランスと入れ替わる形で介入を始めた米国は、左派のパテート・ラオ(Pathet Lao)が実権を掌握するのを阻止するために、右派勢力に肩入れします。

 1960年8月、中立派のスワンナ・プーマ(Souvanna Phouma)が首相に再任されると、米国は、左派が参画するプーマ政権を警戒し、右派のプーミ・ノサワン(Phoumi Nosavan)将軍を支援します。同年11月に中立派とノサワン軍の間で軍事衝突が発生し、12月にノサワン軍は首都ビエンチャンを制圧し、ブン・ウム(Boun Oum)政権が成立します。プーマ首相はカンボジアに亡命し、中立派はジャール平原に撤退します。こうしてラオスは、西側陣営が正統政府と認めるビエンチャンを拠点とするブン・ウム政権と共産主義陣営が正統政府と認めるジャール平原を拠点とする中立派政権に分断されました。

 この事態を前に、軍事介入か政治的解決かの選択を迫られたケネディ大統領は政治的解決の道を選択します。1962年に14ヶ国によるジュネーヴ国際会議でラオスの中立化が宣言され、プーマを首相とする第二次連立政府が形成されます。しかし、中立化宣言は実体を伴うものではなく、以前にも増して各派の対立が続きます。1964年6月、米軍偵察機が撃墜され、パイロットが捕虜になる事件が発生すると、ジョンソン政権は報復攻撃を正式に承認し、米軍はジャール平原に爆撃を実施します。2ヵ月後の1964年8月のトンキン湾事件への報復として米国はヴェトナムで北爆を開始しますが、北ヴェトナム軍の支援を受けるパテット・ラオの本拠地であるジャール平原を中心とするラオス北部と、北ヴェトナムから南ヴェトナムへの武器・物資輸送ルート(ホーチミン・ルート)沿線にあるラオス南東部を中心に、ラオスにも爆撃を繰り返します。その後、ヴェトナム休戦協定が結ばれる1973年まで、ラオスは「史上最大の空爆」(オバマ大統領)を受けることになります。

※本コレクションはマイクロフィルムRecords of the U.S. State Department: Laos, Political Relations and Governmental Affairs, February 1963-1966, Subject-Numeric File POLをデジタル化したものです