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Sukarno and the Army-PKI Rivalry in the Years of Living Dangerously, 1960-1963.


インドネシアの国内事情 1960-1963年 スカルノ政権下の国軍とインドネシア共産党の対立関係

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◆インドネシア建国の父スカルノの共産主義勢力への接近と米国

 インドネシアの独立宣言後、同国の初代大統領となり、現在もなお国民から建国の父として敬意を持たれているスカルノ(Sukarno, 1901-1970)は、第二次大戦下の1943年には後の副大統領ハッタとともに日本を訪問して昭和天皇に面会するなど、日本との関係を強化するとともにインドネシア独立への道筋を作ってきました。そして、日本の敗戦後の1945年8月17日にスカルノは、ハッタの立会いのもとで「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言しました。

 独立戦争後、大統領となったスカルノは第一回アジアアフリカ会議(バンドン会議)を主催して「第三世界」のリーダーの一人として脚光を浴びるとともに、国内における権限強化を図っていきます。冷戦下において中華人民共和国からの援助を受けて国内で支持を拡大していたインドネシア共産党(PKI)と右派勢力が中心の国軍との拮抗状況という権力バランスを巧みに利用してきたスカルノでしたが、国民の支持を維持するためのナショナリズムの鼓舞が英米との対立につながり、西側諸国との関係が険悪となりました。それに反比例するようにソビエト連邦や中国、北朝鮮など共産主義国家へ接近していきました。

 米国は共産主義勢力の東南アジアへの浸透を恐れてスカルノへの不快感を強めていきます。外貨の排除を図るなど極端な経済・外交政策を執ったスカルノは1965年1月には国際連合を脱退し、外交上の孤立状況が決定的となりました。そういった状況下でスカルノの有力な支持基盤であったインドネシア共産党と国軍の主導権争いは激化し、急進左派軍人による国軍首脳部暗殺というクーデターと、それに対応したスハルト(Soeharto, 1921-2008)を中心とする右派軍人勢力を中心とした反クーデターの成功という「9月30日事件」が勃発しました。

 本コレクションではスカルノ政権の共産主義への接近時期における米国国務省文書を中心とした一次史料を収録しており、当時のインドネシアの内政や国内情況、近隣諸国との外交関係、そして米国や日本との関係を考察するのに有効な史料をオンラインで検索することを可能にします。

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