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Romania: Records of the U.S. Department of State, 1945-1963.


ルーマニア関連文書集成 1945-1963年

◆共産主義勢力拡張による一党独裁体制から非スターリン化の改革まで

 第二次大戦末期、ルーマニア国内における民族農民党と自由党と共産党の間の抗争は、1945年3月、ソ連を後ろ盾とするペトル・グローザ(Petru Groza)の首相就任により共産党勢力が制します。親共産党政権は対立する政党を無力化させるためあらゆる手段を使いました。共産党は党員数の増加に努め、とりわけ少数民族、女性、貧困層の中に支持基盤を獲得すると同時に、民主主義政党の活動を停止に追い込みます。民族農民党のユリウ・マニウらは、ルーマニアの共産主義化を阻止するため、西欧諸国に支援を求めますが、支援の手が差し伸べられることはありませんでした。1946年、グローザ政権は早期の選挙実施の約束と引き換えに、西欧諸国の承認を得ますが、実施を引き延ばした末、ようやく11月に実施します。結果は共産党勢力の圧倒的勝利に終わりましたが、1989年以後公開された文書によれば、民族農民党が勝利を収めていたことが判明しました。共産党は対立する政治勢力の根絶に努め、ユリウ・マニウを終身刑に処します。1947年12月30日には国王ミハイ1世を退位させ、ルーマニア人民共和国の建国を宣言しました。以後、ルーマニアでは全体主義と集団主義を特徴とするソビエト化が進行します。

 ソ連憲法をモデルに施行された憲法の下では、共産党が権力の唯一の源泉で、政府は共産党の意思を実行する機関であると定められ、秘密警察による治安体制が敷かれました。あらゆる民間団体は廃止され、国民の多数が属していたルーマニア正教会は共産党の指導下で再編させられました。共産党内の政治闘争も、ゲオルゲ・ゲオルギュ・デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)率いる党派が実権を掌握した1952年までに収束しました。

 経済の分野では、生産と分配手段は国有化され、重工業に重点的に資源が投資され、消費財生産は等閑視されます。農業部門は、工業生産への原材料供給と都市労働者階級への安価な食糧供給の任務を担わされ、農地は強制的に集団農場に再編させられました。国際関係では、西側のマーシャルプランに対抗して創設されたコメコンに加盟する一方で、軍事面ではワルシャワ条約機構軍に加盟します。党と国家機構へのソ連の影響力は強く、ソ連でフルシチョフがスターリン批判を行なった後も、しばらくはスターリン主義が揺らぐことはありませんでした。1960年代になると、経済政策と対外関係に重大な変化が訪れます。等閑視されていた消費財、住宅、社会福祉への関心が払われるようになり、文化活動に対する監視の目も緩やかになります。しかし、政治体制の自由化はなく、経済の中央集権的な指令・計画体制は放棄されませんでした。一枚岩だったソ連との関係は緊張を孕んだものに変化します。ルーマニアを共産主義経済圏における農産物と原材料の供給源にしようとするフルシチョフの試みは退けられ、1964年、すべての共産主義国家は外国の干渉を受けることなく、独自の社会主義路線を進む権利を有することを定めた4月宣言を発表するに及び、ルーマニアとソ連の関係はより緊張を帯びたものになりました。

※本コレクションは以下のNARAのマイクロフィルム資料をデジタル化したものです

Records of the Department of State Relating to the Internal Affairs of Romania, 1945-1963

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