株式会社極東書店トップ > 商品一覧 > The Documentary History of the Dwight D. Eisenhower Presidency. : Volume 12: U-2 Crisis and the Paris Summit of 1960.
商品詳細
解説
1960年に、アイゼンハワー大統領は、主力兵器の規制に関するソ連との首脳会談を開き、それによって、アメリカとソ連との間に対等な関係を築くことを計画していました。国務長官C.ハーター、財務長官D.ディロン、その他、大使や軍関係者が参加した会議の席上で、彼は、アメリカが核兵器開発を放棄したとしても依然として超大国に変わりはないと述べました。広島・長崎への原爆投下から15年経過して、もはや、アンテベラム期に通用した軍事技術への回帰は現実的な選択とはなりえませんでした。アイゼンハワーは、核兵器がもたらす恐怖と核兵器廃絶の不可能性とを理解していました。たとえソ連との間に武器削減の合意を取り付けたとしても、ソ連がその合意を守るかどうかチェックすることが困難であることも承知していました。それでも、彼は世界の非核化を願って、1960年5月半ばのパリでの首脳会談を準備していました。
しかしながら、軍縮を目的とした首脳会談は、アメリカ国民の支持を得ることがなかなかできなかったのです。アメリカでは、核開発とミサイル技術の点でソ連に遅れをとっているというミサイル・ギャップ神話が罷りとおり、アイゼンハワーの軍縮の呼びかけを政治的に受け入れがたいものにしていました。この神話の虚偽性を暴くために、彼は、CIAによるソ連上空の監視飛行を認めなければなりませんでした。また、1960年の大統領選挙で、民主党と共和党の候補者たちは、国防費を巡る論戦の中で、軍拡競争に加担しました。さらに、アメリカ原子力委員会AECやCIA、国防総省、統合参謀本部といった国防関連の政府機関は、政府内における彼らの影響力を取り除きそうな大統領のイニシアティブに無関心でした。国防産業界も、軍縮のための首脳会談には否定的でした。こうした中で、CIAのF.G.パワーズによって操縦された偵察機U-2が、1960年5月1日にソ連の領空内で撃墜される事件が起こりました。16日に開かれた首脳会談は、もはや米ソのデタントへの努力を話し合う場でなくなり、アメリカの偵察問題で紛糾し、翌日には決裂したのです。
しかしながら、軍縮を目的とした首脳会談は、アメリカ国民の支持を得ることがなかなかできなかったのです。アメリカでは、核開発とミサイル技術の点でソ連に遅れをとっているというミサイル・ギャップ神話が罷りとおり、アイゼンハワーの軍縮の呼びかけを政治的に受け入れがたいものにしていました。この神話の虚偽性を暴くために、彼は、CIAによるソ連上空の監視飛行を認めなければなりませんでした。また、1960年の大統領選挙で、民主党と共和党の候補者たちは、国防費を巡る論戦の中で、軍拡競争に加担しました。さらに、アメリカ原子力委員会AECやCIA、国防総省、統合参謀本部といった国防関連の政府機関は、政府内における彼らの影響力を取り除きそうな大統領のイニシアティブに無関心でした。国防産業界も、軍縮のための首脳会談には否定的でした。こうした中で、CIAのF.G.パワーズによって操縦された偵察機U-2が、1960年5月1日にソ連の領空内で撃墜される事件が起こりました。16日に開かれた首脳会談は、もはや米ソのデタントへの努力を話し合う場でなくなり、アメリカの偵察問題で紛糾し、翌日には決裂したのです。