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商品詳細
U.S. State Department, Office of the Executive Secretariat, Crisis Files. : Part 1: Berlin Crisis, 1957 - 1963. NARA, RG59. (Lot File 66D124, 70D548, 78D222, 78D269, 78D271, 80D2). 35mm silver positive microfilm 10 reels with guide. ベルリン危機 1957~1963年/米国国務省総務秘書官室危機局面ファイル(ロト・ファイル)
・ISBN 978-1-55655-988-4 microfilm
絶版
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★★★
| 出版社 | (UPA, US) |
|---|---|
| 出版年月 | 2003 |
| 言語 | ENG |
| ニュース番号 | <K07-960> |
解説
ドイツ分裂の後西ベルリンは社会主義世界の中に開けられた西側のショーウィンドーとなり、東から西への亡命者の抜け穴となっていました。58年には20万、59年には15万の東側住民が逃亡したと言われています。この人口流出は労働力不足となり東ドイツの経済に深刻な打撃を与えていました。ソ連と東ドイツにとってベルリンの現状は放置できない状況となり、1958年11月ソ連はベルリン非武装自由都市提案、西側三国軍の西ベルリン撤退を要求、西側はこれを拒否します。1959年から東ドイツは農業・手工業の社会主義化政策を強化し、このため西側への逃亡者数は激増し、1961年8月には連日1500人規模にたっします。
1961年6月ウィーンでフルシチョフと会談したケネディーは威圧するフルシチョフに対して西ベルリン死守の方針を固めます。軍事的にも緊張が高まる中で逃亡者急増の非常事態に直面し、1961年8月東側は東西ベルリンの境界線に壁を構築し東西間の自由交通は遮断されました。その後もベルリンをめぐる緊張は続き、米ソの力比べの頂点は1962年秋のキューバ・ミサイル危機でした。この危機の後アメリカはキューバを、ソ連は西ベルリンを認め、東西間の係争を固定化することで緊張緩和の方向で現状を承認しあいます。本資料は国務省で長官官房を構成する総務秘書官室の重要課題別ファイルからベルリン危機問題文書集をマイクロ化したものです。
1961年6月ウィーンでフルシチョフと会談したケネディーは威圧するフルシチョフに対して西ベルリン死守の方針を固めます。軍事的にも緊張が高まる中で逃亡者急増の非常事態に直面し、1961年8月東側は東西ベルリンの境界線に壁を構築し東西間の自由交通は遮断されました。その後もベルリンをめぐる緊張は続き、米ソの力比べの頂点は1962年秋のキューバ・ミサイル危機でした。この危機の後アメリカはキューバを、ソ連は西ベルリンを認め、東西間の係争を固定化することで緊張緩和の方向で現状を承認しあいます。本資料は国務省で長官官房を構成する総務秘書官室の重要課題別ファイルからベルリン危機問題文書集をマイクロ化したものです。