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商品詳細
Civil Rights during the Eisenhower Administration, 1953 - 1961. Part 1: White House Central Files, Series A: School Desegregation . Papers of Dwight D. Eisenhower in the Custody of the Dwight D. Eisenhower Library, NARA. 35mm silver positive microfilm 14 reels with guide. アイゼンハワー政権期の市民的権利調査資料 1953~1961年 第1部 シリーズA 人種隔離教育の廃止
・ISBN 978-0-88692-752-3 microfilm
絶版
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★★★
| 出版社 | (UPA, US) |
|---|---|
| 言語 | ENG |
| ニュース番号 | <541-2513> |
解説
1954年以前において、米国国土のいたるところで厳格な人種隔離が存在しました。そうした悪弊の根拠は「分離すれども平等(Separate but Equal)」という1896年のルイジアナ州における客車の人種分離に関して出された最高裁判決に置かれ、それは、ジム・クロウ崩壊の嚆矢となったブラウン判決まで、人種隔離制度の温床となってきました。1954年に、ブラウン対トピーカ教育委員会事件(Brown v. Board of Education of Topeka略してブラウン判決)において最高裁は、15000人以上の都市に対して黒人・白人の別学を許可したカンザス州法を違憲とし、公教育での人種隔離は「本来的に不平等(inherently unequal)」であると判定し、さらに白人との共学を禁じられている黒人生徒が憲法修正第14条で保障する法の平等な保護を受けていないと判決しました。一方1955年には、最高裁は、ブラウン判決に基づき、連邦地裁が人種分離撤廃を争点とする訴訟の裁判権を有すると宣言し、人種統合教育の実施を「可及的速やかに(with all deliberate speed)」進展させるよう求めました。
1954年の判決の時点で、デラウェア、メリーランド、ヴァージニアをはじめ南部17州とコロンビア特別区の諸法は、初等学校の人種分離教育の実施を義務付け、アリゾナ、カンザス、ニューメキシコ、ワイオミング4州も、この時期、人種別学校を許可する法を保持していました。人種差別自体、法律によって規制されていたにせよ、このように合衆国の多くの州では実態として、その遺制が見られたのです。一応、1957年の年末までに、17州のうちの9州と特別区が人種統合教育制度を開始し、5州は1961年までに、一定の人種統合教育制度を実施しました。しかし、それらの諸州の大半は、見せかけの人種統合策を実践するか、あるいは、人種的理由によらない生徒の振り分けを認める法律を楯にして、結局、人種分離教育を継続したのです。南部では、連邦政府による強権的な人種統合に対する反発が根強く、多くの暴力的な抵抗運動が発生しました。その顕著な例は、アーカンソー州のフォーバス知事による1957年の連邦政府命令への抵抗です。彼は、アーカンソーの州兵をリトルロック中央高校に出動させ、通学中の黒人生徒の入校を阻もうとしました。これに対してアイゼンハワー大統領は連邦軍を派遣することで混乱を治め、人種統合教育の実施を断行したのです。
本資料集は連邦政府と有識者・外部団体との書簡のほか、大統領と大統領顧問との間で交わされた内部メモ、ワーキング・ペーパーを収録しています。本資料集は、大統領や側近のためのレファレンス・サービスとしてまとめられたもので、公民権問題に関するホワイトハウスの公文書主題別ファイルを完全な形で収録しており、公民権運動、アフリカ系アメリカ人の教育制度、黒人史研究にとって不可欠な資料です。
1954年の判決の時点で、デラウェア、メリーランド、ヴァージニアをはじめ南部17州とコロンビア特別区の諸法は、初等学校の人種分離教育の実施を義務付け、アリゾナ、カンザス、ニューメキシコ、ワイオミング4州も、この時期、人種別学校を許可する法を保持していました。人種差別自体、法律によって規制されていたにせよ、このように合衆国の多くの州では実態として、その遺制が見られたのです。一応、1957年の年末までに、17州のうちの9州と特別区が人種統合教育制度を開始し、5州は1961年までに、一定の人種統合教育制度を実施しました。しかし、それらの諸州の大半は、見せかけの人種統合策を実践するか、あるいは、人種的理由によらない生徒の振り分けを認める法律を楯にして、結局、人種分離教育を継続したのです。南部では、連邦政府による強権的な人種統合に対する反発が根強く、多くの暴力的な抵抗運動が発生しました。その顕著な例は、アーカンソー州のフォーバス知事による1957年の連邦政府命令への抵抗です。彼は、アーカンソーの州兵をリトルロック中央高校に出動させ、通学中の黒人生徒の入校を阻もうとしました。これに対してアイゼンハワー大統領は連邦軍を派遣することで混乱を治め、人種統合教育の実施を断行したのです。
本資料集は連邦政府と有識者・外部団体との書簡のほか、大統領と大統領顧問との間で交わされた内部メモ、ワーキング・ペーパーを収録しています。本資料集は、大統領や側近のためのレファレンス・サービスとしてまとめられたもので、公民権問題に関するホワイトハウスの公文書主題別ファイルを完全な形で収録しており、公民権運動、アフリカ系アメリカ人の教育制度、黒人史研究にとって不可欠な資料です。