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商品詳細
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Dean Gooderham Acheson Papers . Yale University Manuscript and Archives Collection. Ed. by Diane Ellen Kaplan. 35mm silver positive microfilm 46 reels. ディーン G. アチソン文書 冷戦の始まりと大戦後のアジア トルーマン政権の国務長官
microfilm
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★★★
| 著者・編者 | Acheson, Dean Gooderham, |
|---|---|
| 出版社 | (Scholarly Resources, US) |
| 出版年月 | 2004 |
| 言語 | ENG |
| ニュース番号 | <537-3051> |
解説
「書簡をもつて啓上いたします。本日署名された平和条約の効力発生と同時に、日本国は、「国際連合がこの憲章に従って採るいかなる行動についてもあらゆる援助」を国際連合に与えることを要求する国際連合憲章第二条に掲げる義務を引き受けることになります。」 これは1951年9月8日日米安全保障条約の署名に際して吉田総理とアチソン国務長官との間に交換された公文、いわゆる"吉田・アチソン交換公文"冒頭でのアチソンの表明です。サンフランシスコ講和条約は米国の同盟国としての日本の国際社会への復帰であり、米国は日本の軍事基地を使用する権利を得、また日本に自衛力漸増の道義的責任を負わせたものでした。アチソンはダレスを国務省顧問として日本との交渉にあたらせ、サンフランシスコでの対日講和会議には米国全権団を率いました。
アチソンDean Gooderham Acheson (1893-1971)はグロトン校からイェール大学へ進み、ハーヴァードで法学を修め弁護士になります。1919-1921年連邦最高裁判事ブランダイスの私設秘書、1933年ローズヴェルト政権発足で財務次官をつとめますが平価切下げ政策に反対して辞職します。1941年2月国務次官補となり第二次大戦中はソ連を始め連合国の援助に努め (Council member of UN Relief and Rehabilitation Administration)、戦後はブレトンウッズ会議に深くかかわるなど国際機構の設立に努力しました。1945年8月、日本敗戦の日にグリューの後任の国務次官となり、ソ連に対抗してトルーマン宣言、マーシャル・プランの政策展開に尽力します。1947年5月国務次官アチソンはドイツと日本の工業復興の必要性を説いていますが、この頃から米国は日本の復興・安定に具体的な検討を始めたことが読み取れます。1949年1月マーシャルの後の国務長官に就任(1949-1953)、4月の北大西洋条約機構(NATO)の成立に指導的立場を発揮します。
アチソンは米国のアジア政策の策定と展開の上でも大きな役割を果たしています。1949年10月中国で人民共和国が誕生しますが米国にとって中国革命の衝撃は大きくトルーマン政権の責任追及の声も上がりました。アチソンは8月「中国白書」を公にして蒋介石政権の腐敗を指摘し対中国政策を釈明しています。しかしこの時アメリカ社会に醸成された雰囲気が後のマッカーシズムへとつながっていきます(後にアチソンにもマッカーシーの非難の矛先が向けられました)。1950年1月アチソンは演説で台湾への不介入を念頭にアジア政策の見直し(NSC48)「太平洋防衛線」に言及しますが、後に朝鮮戦争を誘発したものという批判を受けます。1951年9月にはサンフランシスコ講和条約で日本の国際社会への復帰を援助し、対日講和交渉の立役者であったダレスが1953年アイゼンハワー政権誕生で国務長官となります。政界引退後のアチソンはケネディ、ジョンソン、ニクソン各大統領の非公式の助言者でもありました。本文書にはトルーマン以後ニクソンにいたる歴代大統領、国務長官をはじめとする国務省スタッフ、各国首班や国連大使、外交官などの書簡が収められ、ニクソンの対中外交政策、核問題などこの間の国際的な懸案問題が論じられています。本文書集が、戦後世界の動向、米国の対アジア政策を探る上での基本的な資料であることは言を待ちません。
アチソンDean Gooderham Acheson (1893-1971)はグロトン校からイェール大学へ進み、ハーヴァードで法学を修め弁護士になります。1919-1921年連邦最高裁判事ブランダイスの私設秘書、1933年ローズヴェルト政権発足で財務次官をつとめますが平価切下げ政策に反対して辞職します。1941年2月国務次官補となり第二次大戦中はソ連を始め連合国の援助に努め (Council member of UN Relief and Rehabilitation Administration)、戦後はブレトンウッズ会議に深くかかわるなど国際機構の設立に努力しました。1945年8月、日本敗戦の日にグリューの後任の国務次官となり、ソ連に対抗してトルーマン宣言、マーシャル・プランの政策展開に尽力します。1947年5月国務次官アチソンはドイツと日本の工業復興の必要性を説いていますが、この頃から米国は日本の復興・安定に具体的な検討を始めたことが読み取れます。1949年1月マーシャルの後の国務長官に就任(1949-1953)、4月の北大西洋条約機構(NATO)の成立に指導的立場を発揮します。
アチソンは米国のアジア政策の策定と展開の上でも大きな役割を果たしています。1949年10月中国で人民共和国が誕生しますが米国にとって中国革命の衝撃は大きくトルーマン政権の責任追及の声も上がりました。アチソンは8月「中国白書」を公にして蒋介石政権の腐敗を指摘し対中国政策を釈明しています。しかしこの時アメリカ社会に醸成された雰囲気が後のマッカーシズムへとつながっていきます(後にアチソンにもマッカーシーの非難の矛先が向けられました)。1950年1月アチソンは演説で台湾への不介入を念頭にアジア政策の見直し(NSC48)「太平洋防衛線」に言及しますが、後に朝鮮戦争を誘発したものという批判を受けます。1951年9月にはサンフランシスコ講和条約で日本の国際社会への復帰を援助し、対日講和交渉の立役者であったダレスが1953年アイゼンハワー政権誕生で国務長官となります。政界引退後のアチソンはケネディ、ジョンソン、ニクソン各大統領の非公式の助言者でもありました。本文書にはトルーマン以後ニクソンにいたる歴代大統領、国務長官をはじめとする国務省スタッフ、各国首班や国連大使、外交官などの書簡が収められ、ニクソンの対中外交政策、核問題などこの間の国際的な懸案問題が論じられています。本文書集が、戦後世界の動向、米国の対アジア政策を探る上での基本的な資料であることは言を待ちません。